私の物語

川の側の借家より前は井戸の側だと思うのだけれど、それより前は2階建ての納屋だったと、姉に聞いた。その記憶は私にはないけれど。姉は井戸の側の家の記憶は無いと言っていた。もしかしたら私の記憶違いなのかもしれない。今となっては事実を知っている人は誰も居ない。母はもう何も覚えては居ない。

 

父が蒸発した前後は何も覚えてはいない。

後で聞いた話では、と言ってもお盆やお正月に家族が集まった時に、昔話で盛り上がったりした時に聞きかじったり、記憶の答え合わせをしたりしたものだけれど、父は出稼ぎのような感じで大阪に行ったということだ。最初のうちは多少の仕送りもあったらしいが暫くしてプツンと消息が途絶え、母は子どもたちを実家に預け、大阪に探しにも行ったということだけれど、極貧暮らしだったから何度も大阪に行けるわけもなく、途方にくれた結果に長女を実家に里子に出し、母、長男、次女、三女の私の4人の生活を始めた。

長女を実家に里子に出す際、泣く泣く出したというわけでなく、長女に実家に残るか一緒に来るか尋ねたら、長女自身が実家に残ると答えたという。

どんな気持ちで、小学校低学年程度の子どもが親と一緒に暮らすことを諦めたのだろう。その話を長女から聞いた時は胸が詰まって何も言えなかった。長女もどうして実家に残ることになったのかの記憶は無かったけれど、その時の母の置かれた状況と経済状態などを祖母と母の妹である叔母とが懇々と長女に言って聞かせ説得したということだ。私とは7歳離れた姉は中学を卒業後、手に職を持った方が貴方の為との叔母の勧めで住み込みで美容師になった。60年前は今のような専門学校など行かなくても、住み込みで経験を積み数回程の講習で美容師の国家試験を受験し美容師になれたから。血が繋がった本当の姉なのに、自分のことしか見えていない子ども時代の私には、一緒に暮らしている三女と同じ位の姉という感覚はなかったように思う。祖母の家にいるお姉ちゃんっていうくらいの感覚。段々と大人に近づき色んな物事が分かりだし、姉の気丈さや苦労や痛みを理解できるようになっていった。そんな長女が母の元に戻れたのは22歳くらいの時で25歳でお見合い結婚した。

 

4人で暮らすようになっても極貧で、苦しさのあまりに何度も近くの川の橋に立ったと聞いた。片手には長男、もう一方の片手に次女、そして背中に私を負い、何度も橋に立ったと聞いた。その度、長男と次女が泣いて嫌がったから今がある。

 

母は水商売に入った。それは仕方ないし、他に方法も無かっただろう。長男は中学生くらい、次女は就学前後、私は幼児だったのだから。

そしてその水商売に入ったことで、母は、ひとりの男性と知り合い、その男性がその後の私の人格や性格に大きな影響を与えた。その男性を私は「おじちゃん」と呼んだ。

おじちゃんが母を水商売から抜け出させ、母が生きていく希望にもなった。もちろんおじちゃんは既婚者だったけれど、60年前の当時の母の境遇を知っている周りの人たちは誰も母やおじちゃんを白い眼でみる人は居なかったように思う。

ただ、中学生頃で父を知っている多感な時期の兄だけは、おじちゃんの出現には心を痛めていたのだと思う。兄は3年程前に癌で亡くなってしまったから、当時の気持ちを聞くことは出来ないけれど、恐らくいろんな意味で、苦しく歯がゆく辛く情けなく思っていたに違いない。兄は中学を卒業後、働きながら定時制の高校に通った。定時制の高校は4年制で、その途中、多分、18か19歳の時だったと思うがネフローゼという難病に罹患し闘病生活に入り数年間入院した。小学校の行き帰りに兄の病院の前を通る私は窓から見下ろす兄に向って手を振ったものだったし、着替えやらを持って行った。高校時代の兄はニキビが多かったけれど、とても端正な顔立ちでカッコよかった。でもネフローゼに罹患してからは薬の副作用でみるみる顔が風船のように膨れて可哀想だった。ネフローゼは完治しない病気、一生付き合っていかなくてはならない。自分の体と相談しながら薬や体調を調整できるようになって退院し、高校を卒業したいという希望もあったし、週に2回訪れるおじちゃんの存在もあったし、病気の為に無くした青春の代わりに都会に出て一旗上げておじちゃんや父を見返してやりたいと思う気持ちもあったのかもしれないし、そして、父を探し出したいという思いもきっとあったに違いない、兄は退院すると直ぐに東京へと旅立った。

兄のそれからの人生は、これまた波乱万丈。

 

今日はここまで。