私の物語(②ー3 川の側の借家)

時期的には、この借家から小学校に通った記憶がないし、小学校に通った記憶がある借家に引っ越すまでには、2回引っ越している。

この川の側の借家から保育園まで、幼児の足で一時間近く掛かったんじゃないかな?
まぁ、今思えば、良く毎日歩けたもんだと思う距離だな。今同じ道を歩いてみろと言われたら絶対無理な距離。
行きも帰りも兄か姉(次女)が一緒だった。
9才離れている兄は中学生になっているから、ほとんどの場合姉が送り迎えしてくれた。
多分、私の足が遅いからだろう、姉は遅刻すると言ってはしょっちゅう泣いていた。
姉は私と3歳違いだから、まだ小学生低学年の頃だろうから、さぞ心細い毎日だったに違いない。
姉の通う小学校への道の途中に私が通う保育園があった訳ではないから、姉は保育園に周り道をしなくてはならなくなる。
遅刻しそうになり姉が泣くのは、いつもこの小学校と保育園の分かれ道に差し掛かる頃。
おそらく姉は、自分が遅刻するかしないかを、8時頃に鳴る小学校か中学校の鐘か何かの合図の音と残された距離とで判断していたのだと思う。
その小学校と保育園との分かれ道で、姉にここからひとりで行ってね、と、言われることが度々あったように思う。
保育園に、遠い距離からひとり徒歩で来たのかと、保母さん(当時は保育士とは呼ばなかった)たちは驚くだろうし、近所に家があるなどの特別な理由がなければ、保育園には基本送り迎えしないといけないのだろうから、当然母に連絡が行くのだろう、姉はしょっちゅう母に叱られて泣いていた。
当然、遊びたい盛りの姉は、お迎えを忘れて帰宅することもしょっちゅうで、夕方暗い時間になっても誰も迎えに来てくれる人の居ない私は、ひとりぽつんと居残っていることも多かった。
そういう時はほとんどの場合、母がバイクでお迎えに来てくれて嬉しかった。
その夜、また姉は叱られて泣く。
全くもって気の毒としか言いようが無いくらい、姉は私の為に泣いていた。
でも、当時の我儘で自己中の私には、私の為に叱られて気の毒だなどとは思ったことも無いに違いなく、また叱られて泣いて、本当に泣きべそだなぁ位の感覚しか無かったと思う。
今思えば、姉だってまだ本当に幼かったのに可哀想な思いさせてたなぁと気の毒になる。

私にとって、保育園生活が楽しかったという記憶は全くない。
記憶に浮かぶ友だちって存在も微かにすら誰ひとり居ない。
唯一楽しかったというか好きだった記憶は、冬の時期になるとストーブが焚かれ、危険防止の為に柵で囲むのだけど、どんな形のストーブだったかは忘れたけど、金属製のお弁当箱だとストーブのところに置いてくれた。
私が通っていた保育園ではご飯だけ持参で、おかずは園が用意してくれていた。
昼食時、お弁当箱の蓋を開けると、時々お焦げが出来るのが嬉しくて、温かで美味しかったことは忘れられない。

保育園生活に楽しかった記憶の無い私は、当然保育園には行きたく無かったのだから、しょっちゅうゴネて行き渋った記憶はある。
それが原因で姉が遅刻すると泣く事が多かったのだろう。
だから、姉と分かれ道で分かれた後、そのままUターンして帰宅することがしょっちゅうだった。
合鍵を持っている時は鍵を開け、部屋にひとりで居た。怖いとか心細いとか感じたことは無かったように思う。
母は、昼食休憩には必ず自宅に戻り昼食をしていた。朝のお味噌汁の残りと漬物だけの毎日。
母に見つかると叱られることは分かっているから、母が休憩に帰ってくる時間になると、押し入れとかも無い実に粗末な家だったので、カーテンで仕切らせて荷物置き場のように使用していた半畳くらいの場所に隠れていた。
4、5才くらいの幼児が大人を騙せる訳も無く、大抵は見つかり叱られるのだけど、その時間から保育園に送っていく時間の余裕が母にも無い為、ひとりで留守番する許可を渋々母から得る事になる。
数え切れない程この渋々の許可を得ていた。
鍵を持っている時はこの手を使えたのだけど、悲しいかな、幼児の域をまだまだ抜けきれて居ない私は鍵を忘れることもあり、その時は、借家の端の汚い廃木などがおかれて居るボロボロの朽ちかけた倉庫に隠れ、母がお昼に帰ってくるのを待ったりしていた。
本当に行きたく無かったんだと思う。

今日はここまで。